庚申塚公園にホームズ像野外彫刻
この像は日本シャーロック・ホームズ・クラブ(略称JSHC)の有志の呼びかけによって、日本中のホームズの愛好者とホームズ関連出版社からの寄付により建立され、1988年10月9日に除幕されました。
彫刻家の佐藤嘉則氏(東京芸術大学大学院修了)に制作を依頼しました。芸術作品としての価値を強調して「シャーロック・ホームズ像野外彫刻」と命名しました。
著者コナン・ドイル(1859〜1930)が著した『ホームズ物語』、全六十編で活躍する「シャーロック・ホームズ」氏と同じ背丈185センチで、まさにこの地にホームズがおりたったような佇まいの作品です。
限られた予算内で等身大の作品を完成させるために、彫刻家自らがレンタカーのトラックで像を追分まで除幕式前日に運びこみ、台座施工の追分の内堀建設(社長が亡くなり現在は廃業)がボランティアで像をクレーンにつりあげて台座に設置するという涙ぐましい努力のたまものでもあります。
設置から35年(2022年現在)が経過して、台座に少しのヒビが入ったりはしていますが、毎年追分区のみなさまに綺麗に清掃していていただいているこの庚申塚公園で、集められた庚申の碑たちを見守るようにパイプ片手に力強く立っています。
観光名所のひとつにもなっていて嬉しい限りです。
なお、像のまわりの生垣の手入れなどの管理は日本シャーロック・ホームズ・クラブ内の「ホームズ像管理員会」(長野県在住会員2名)によって行われています。また庚申塚公園内および周辺の草刈りは追分在住者を中心として追分地域活動ボランティアらによって実施されています。
なぜ追分の地がえらばれたのか
「ホームズ物語」の第一作『緋色の研究(習作)』発表100周年(1987年)に追分の油屋旅館(現在の文化磁場油や)で日本シャーロック・ホームズ・クラブの第一回軽井沢セミナーが開催されました。その席上で熱心な会員の松下了平が「ホームズ100周年を記念して日本にもホームズ像を建立しよう。ついては延原謙(1892〜1977)が『ホームズ物語』全訳を果たした後に油屋旅館の離れをかりてこの『ホームズ物語』の全訳にさらに手を加え、新潮文庫版の全訳を完成させたという、信濃追分の他に像を立てるにふさわしい地はない」と提案しました。そのときのセミナー参加者全員が賛同したことから、会員の有志によるホームズ像建立委員会ができて、ホームズを愛する方たちへの募金活動開始し、多くのかたのご協力により完成できました。
追分区の方をまじえ、軽井沢町との交渉の結果、分去れ近くの町所有の庚申塚公園内に設置が決まりました。
トリビア 1
ホームズ像除幕式の日には紅白幕を用意、西部小学校の鼓笛隊パレード先導が予定されていました。ところが、あいにく昭和天皇が危篤、歌舞音曲は慎む自粛ムードのたかまりのなか、軽井沢町教育員会との相談結果、鼓笛隊の先導はやむなく中止となりました。それでも全国から集まった参加者の多くがホームズ時代の仮装姿で、浅間神社から除幕式会場の庚申塚公園まで追分宿をパレードしました。
予定していた紅白幕もこの時期にはまずいのではということで、ホームズ像除幕委員会の涙ぐましい努力で白地の大きな布にホームズの黒のシルエットを描いた立派な横断幕が当日会場を飾り、参加者を喜ばせました。JSHC会員、推理作家協会員、寄付を寄せてくださった方、追分在住のかたなど多くの参加者がありで式典は大いに盛り上がり、参加者全員で用意したバラの花をホームズの台座に飾り式典を終えました。
この様子は信濃毎日のほかにも軽井沢ヴィネット、写真週刊誌などにもとりあげられました。
トリビア 2
像の設置工事の途中で追分は雷の通り道になっている。もし像に雷が落ちたら大変なことになるとのアドバイスがありました。そこで急遽、避雷針の工事を台座施工の前にしてもらうことになりました。そのため台座予定地の数メートル四方を大きく掘り下げ、そこに鉄板を敷き、雷をホームズ像の帽子のテッペンからホームズの体内を通り足の付け根から台座をとおりぬけ地下に誘導するという壮大な避雷装置が設置されています。
雷鳴のない夏はありません。2021年夏には追分の我が家の庭の端に立っている電柱に落雷したため一時追分一帯が停電したこともありました。
[文責 日本シャーロック・ホームズ・クラブ主宰者 東山あかね 夏季のみ追分在住]